僕とワルツを
――ただ、会いたかった。
黒いコートを身に纏った金髪碧眼の青年が、白い息を吐きながらアパートの窓を見上げていた。
夜の帳はとうに落ち、街灯に照らされた雪が夜空を舞う。辺りに人の気配はなく、石畳には粉砂糖を篩いかけたかのごとく雪が積もり始めている。静寂の中、青年は傘も差さずに立ち尽くしていた。
視線の先にある窓はカーテンが閉められていたが、淡く灯りが洩れている。目的の人物がいる証しだろう。
不意に青年は思い出す。以前もこうして「彼」のアパートを見上げたことが何度もあった。あれはデュッセルドルフで闇銀行を始めた時だ。彼は一度も青年――あの頃はまだ少年だったが――に気づくことはなかったが。
その時、窓のカーテンが開いた。部屋の中の彼は降りしきる雪をひとしきり眺めた後、ふと視線を下ろす。青年と目が合った瞬間、彼の表情は驚愕へと変わり、すぐに窓を離れた。数分も経たないうちにアパートのエントランスから現れたのは黒目黒髪の男――Dr.テンマだった。
テンマは息を切らしながら青年の名前を呼ぶ。
「ヨハン……どうして、君が……」
「お久しぶりです、Dr.テンマ。あなたに会いたくて、と言ってもあなたは信じないでしょうけど」
街灯の下に佇むヨハンにテンマは駆け寄り、堰を切ったように声を荒げた。
「今まで――今までどこにいたんだ!? ニナだって心配していたんだぞ!」
「……母さんの近くに」
ヨハンの簡潔な返答に、テンマははっとする。
「――そうだ、そのことで話があるんだ。とりあえず今は中に入ろう」
「いいんですか」
「こんな寒い中で立ち話する訳にもいかないだろう? 私も君と話したいことがたくさんあるんだ」
◇
中央暖房のためアパート内はかなり暖かい。リビングに入った所でテンマがヨハンの手首を軽く掴み、呆れた声を出した。
「いつからあそこに立ってたんだ? 手がこんなに冷たいじゃないか」
「どれくらいかな。時間は見てないから」
テンマはため息をつくと、ヨハンの額に手を当てる。テンマの掌は温かかった。
「うん、熱はないな」
テンマは雪で濡れた二人のコートをハンガーに掛けた後、フェイスタオルをヨハンに渡す。
「濡れた髪はタオルで拭いておいてくれ。何か温かい飲み物も持ってくるけど、グリューワインでいいかな」
「僕は何でも」
「よし。じゃあ、そこで座っててくれ」
突然現れたヨハンにも内心どうあれ、動揺の色を見せずに対応する辺りはやはり医者の性といったところか。キッチンに向かうテンマの背中を見やりながら、ヨハンはソファに腰を下ろす。タオルで髪を軽く拭くと、足を組んでソファに背を預け、目を閉じた。
「身体の調子はどうだい。手術痕は痛むか?」
甘い香りを漂わせた熱いグリューワインで二人は身体を温める。息をつくとテンマがヨハンの体調を尋ねた。
「いいえ、特に何も。これといった後遺症もありませんし」
「そうか」
テンマは緊張した面持ちでヨハンを一瞥すると、視線を落として話し始めた。
「君が病院を失踪した後……私はあの人の所に、君のお母さんの所に向かったんだ。彼女は君に会えたことを心から喜んでいたよ。もう本当の名前も聞いたんだろう? ……ヨハン」
テンマはヨハンを見据えたまま名前を口にする。仮ではない、本当の名だと強調するように。
「ええ。父さんの名前から取ったと母さんが教えてくれました。『アンナ』も母さんの妹から貰った名前だと」
「ああ」
「最初はなんて偶然だろうと思った……でも本当は偶然じゃないんでしょう。理由は何にせよ、恐らくあの怪物――フランツ・ボナパルタが、父の名前を絵本の少年に付けたんだ」
テンマは目を伏せると、膝の上で手を組み直した。
「私は……過去、ボナパルタや君たち親子の間に何があったのかは詳しくはわからない。だけど今は、少なくとも今は、彼女は君たち双子を同じくらい愛していると、……そう思うよ」
テンマの黒い目がヨハンの青い目を強く捉える。これが、あの病室でヨハンから投げかけられた問いへの答えなのだと告げるように、まっすぐに。ヨハンに伝えるために、彼はずっとそれを胸に抱いていたのだろうか。
ふと、ヨハンにある考えが浮かぶ。それはほんの出来心だった。
「……ねえ先生。思い付いたことがあるんだ。聞いてくれる?」
「何だい」
「僕と取引をしませんか?」
「取引?」
「そう、取引」
「……ボナパルタの『めのおおきなひと くちのおおきなひと』かい。なんだか悪い予感しかしないんだけど」
訝しむテンマとは反対に、ヨハンはにこりと微笑んだ。
「別に大したことじゃないよ。あなたが僕のそばにいてくれれば、僕はもう罪を犯さない。ただそれだけ」
途端にテンマは絶句し、部屋に沈黙が訪れる。しばらくして、テンマがようやく重い口を開けた。
「それは……一緒に住む、ということか?」
「そうだよ。もちろんずっと付きっきりという訳じゃない。先生が病院やMSFで留守にしている間は僕が家を守る。それでどう?」
「どうって、そんなことできるはずが――」
「犯人隠匿の罪に問われるから? それはどうかな」
「……どういう意味だ」
怪訝そうに眉根を寄せるテンマに、ヨハンは事実を淡々と述べる。
「『J』は今も警察病院で昏睡状態。それが警察の公式見解でしょう。彼らはもう僕を追っていない」
「君の存在はいまやタブーとなっているということか……? じゃあ逆に、もし取引をしなかったら?」
「そうだね、あなたの前から姿を消して、裏社会で生きていくことになるかな」
「……! また昔のようにか?」
「今でも僕の能力を欲している人間は大勢いるからね。彼らの許に戻れば以前と変わらず罪を重ねていくことになるかな。……当然殺人も」
最後の単語にテンマはびくりと肩を震わせた。ヨハンの心中など思いも寄らないことだろう。
そう、これは嘘だ。そして大きな賭け。本当の名前を取り戻した今、ヨハンはもう人を殺す必要を感じない。闇社会に戻るつもりもない。
ただテンマの許を離れたくないがために、彼が抱いているであろう罪の意識に付け込んでいるのだ。ただそれだけのために、こんな惨めで醜い、愚かな嘘にしがみついている。
「もっとも、そうなったら今度こそあなたが僕を裁いてくれればいいよ。……元々それが望みだったのだから」
「っ! 私はもう君を殺すつもりなどない……!」
「では取引を引き受けますか」
「い、いや、待ってくれ、ヨハン。……そうだ、なぜ君はそんなことを言い出す?」
「なぜ? 決まっているじゃない。あなたは僕にとって親同然……いや、親以上の存在なんだよ」
眉をひそめ、釈然としない顔をしているテンマに、ヨハンはさらに畳みかける。
「以前あなたにかけた言葉をもう一度言うよ。……先生が僕を生き返らせたんだよ」
瞬間、テンマは虚を突かれた表情を浮かべた。
テンマがいなければ今のヨハンはいない。謂わば彼は怪物の生みの親とも言える存在なのだ。テンマにとって、その事実は永遠に枷であり続けるだろう。
「……ああ、そうだ。君の行く末に私は責任を負っている。だが、しかし……」
額にうっすらと汗を覗かせ、独りごちるテンマ。ヨハンは温くなったグリューワインを口に付けると、ひとまず話を置くようテンマに促した。
「話の続きは明日にしませんか。もう夜も遅い」
時計の針は既に夜の11時を過ぎていた。テンマも壁の時計を見上げる。
「あ、ああ、そうだな」
するとテンマは何かを思いついたらしく、ヨハンのほうに振り向いた。
「そういえば君は今晩泊まる所はあるのか」
「いいえ、まだ決まってないけど」
テンマは少し考える仕草を見せ、ヨハンに告げる。
「じゃあ今夜はここに泊まっていきなさい。それでいいかい」
テンマの意外な申し出は、ヨハンを内心驚かせた。ヨハンは口角を上げ、皮肉めいた笑みを作る。
「僕は構いませんが、ずいぶん簡単に決めるんだね。先生こそいいの」
「ああ。実を言うと、このまま君を帰らせたらもう二度と会えない気がしたんだ」
テンマはそう言って苦笑した。
◇
「私はソファで寝るから、ベッドは君が使うといい」
「先生がベッドで寝てください。僕はソファで充分なので」
「いや、ソファで寝るのも当直で慣れているし、遠慮はいらないから」
テンマから寝間着代わりのスウェットを借り、どこで寝るかの段取りで、二人とも一歩も譲らず軽い応酬となった。さらにヨハンは反論する。
「それなら尚更、休める時に休まないと先生の身体に障ってしまう」
テンマはぽかんと口を開け、ヨハンをまじまじと凝視する。
「先生?」
「あ、いや……君の口からそんな言葉を聞けるとは思わなかったから。しかし、君も頑固だな」
口許を緩めて困ったように頭を掻くテンマに、ヨハンはある提案をする。
「それなら一緒に寝ませんか?」
「……え」
「二人で眠れば冷えた身体も温まると思ったんだけど」
この提案にはさすがのテンマも面食らったようだ。戸惑いを見せるテンマに対し、ヨハンは敢えて挑発的な物言いを取る。
「それとも殺人鬼となんて怖い? ああ、あなたの眠っている隙に僕が凶行に及ぶとか――」
「馬鹿を言うんじゃない。君はもう名前のない怪物じゃないんだ」
「だったら」
「……わかったよ。降参だ。君の言う通りにするよ」
テンマは両手を上げる仕草を見せ、ため息をついた。
◇
「先生、もしかして眠れない?」
二人がベッドに入ってから程なく経った頃。まだ寝入る様子を見せないテンマに、ヨハンは声をかけた。
「……ああ、君がとんでもない爆弾を落としていったからね」
愚痴と共に何度目かのため息を漏らしたテンマに、ヨハンはくすりと笑う。
「すみません」
雪の降る夜はやけに静かだ。横になってベッドに並ぶ二人の声だけが暗闇にこだましている。
「二人で寝るとやっぱり温かいですね」
「そうだな」
「ねえ、先生。あなたにとって僕はただの患者でしょうけど、僕にとって親以上というのは本当だから。ずっと会いたかった」
普段より饒舌なのは、グリューワインに含まれていた微量のアルコールのせいだろうか。テンマの返事はない。夜目が利くヨハンだが、今は彼の表情も見えなかった。
「信じられない? でしょうね、当の僕自身がそうだから。こうして今あなたと話しているのだって現実じゃないみたいだ」
「……現実だよ。私も君も生きている」
「そうだね。温度を感じるのも、名前を呼ばれるのも、全部生きている証拠だ。……おやすみなさい、先生」
「おやすみ、ヨハン」
隣に温もりを感じるこの懐かしい感覚はいつの時だったか。……ああ、アンナだ。
追憶に思いを馳せながら、ヨハンの意識は眠りの底へと沈んでいった。
◇
翌朝。昨夜からの雪は止んだようで、カーテンの隙間から雪の反射光が眩しく差し込んでいる。ヨハンは身を起こし、隣で仰向けに眠るテンマを見下ろした。ヨハンがすぐそばにいるにもかかわらず、その寝顔はひどく無防備だ。
昨夜の取引をテンマは引き受けるだろうか。彼にとって何のメリットもない取引を。
ヨハンにとって、テンマは今までずっと親のような存在だった。文字通りヨハンを生き返らせ、ヨハンの中の怪物を目覚めさせた張本人。そして運命に踊らされながらヨハンを追い続け、その果てに赦しを与えてくれた人。
彼の許を訪れたのは、どうしても会いたくなったからだ。だが顔を合わせて魔が差してしまった。脅し同然の取引まで持ちかけて彼のそばにいたいと思った。
けれど今、ヨハンの隣にいるテンマを見ると、そんな経緯などどこかへ吹き飛んでしまう。テンマは規則正しく寝息を立て、穏やかな顔で眠っている。その唇に。
――キスをしたい。
こんな感情は初めてだった。その「感情」も、すべての記憶を思い出すまでは、ヨハンとは無縁のものだと思っていた。世界は虚無で、何をしても何を見ても心が動じることなどなかったのに。
だが抑えがたい衝動は、同時に別の感情をも呼び起こす。
突如ヨハンの脳裏に蘇る、あの日の光景。「こっち」と呟いた母の声、繋いだ手が一度動いた感触、うるさい心臓、もう一人の分身が上げた悲鳴――。
――怖い。
過去の記憶はいつまでも鮮烈にヨハンに付き纏う。ヨハンの中に巣食う、最も深い闇。それは怪物などではなく、子供が抱いた恐怖の感情だった。
額に冷たい汗を伝わせながら、ヨハンは眠るテンマに視線を戻す。
『君はもう名前のない怪物じゃないんだ』
昨夜の言葉が本心なら、裏社会で生きていくというヨハンの嘘もとっくに見透かされているのかもしれない。だとすれば、あの取引は前提が崩れ、全く意味を成さなくなる。
たとえテンマが取引を受け入れたとしても、遅かれ早かれいずれはヨハンを見放すことになるだろう。
そう、あの時の母のように。
ならば一緒にいないほうがいい。もうあんな思いは二度としたくない――。
辿り着いた思考にヨハンは口許を歪め、自嘲する。
自分はこんなに臆病だったのか。怪物のままなら知り得なかったことだ。
ヨハンはベッドを降りると部屋を移動し、スウェットから元の服に着替え始めた。リビングに掛けてあったコートを羽織ると、玄関には向かわずに再び寝室に戻る。テンマは先程と変わらない姿で眠っていた。
ベッドに手を付き、テンマを眺める。ヨハンは身を屈めると、引き寄せられるように唇を重ねた。触れるだけの静かなキス。あの漆黒の瞳をもう一度目に焼き付けたかったが、唇を離してもテンマの瞼が開く気配はなかった。
「……さようなら、先生」
別れを告げると部屋を後にし、玄関に向かう。ドアノブに手をかけたその瞬間、背後から聞こえたのはヨハンを呼び止める声。
「――ヨハン……!」
ヨハンは振り返らず、ドアノブから手を離した。
「どこへ行く気だ、また姿を消すつもりか? 昨日、言っただろう? 話の続きをすると」
「気が変わったんだ。もう話すことはないよ。でも最後にあなたに会えてよかった」
「取引は!? 言ってたじゃないか、そばにいればもう罪を犯さないと。行くな」
ヨハンは振り向き、瞠目して目の前のテンマを見つめる。
「引き受けるの?」
「ああ。君が眠った後もずっと考えてたんだ。どうすればいいのか。だから」
「あなたはきっと後悔する」
「……そうかもしれないな。でも君がそれを望むのなら、死ではなく生きることを選んだのなら、私もそれに付き合おうと思ったんだ」
テンマは覚悟を決めた眼差しをヨハンに向ける。ヨハンが惹かれた、あの闇色の瞳で。
後悔する――それはヨハンのほうだ。取引などせずに出て行くべきだともう一人の自分が訴える。
だが、もう抗えない。この渇きを潤す、唯一求めていたもの。この選択によって新たな終わりを迎えることになろうとも。
ヨハンはテンマの右手を取ると、手の甲に口づけを落とす。
「え、ヨ、ヨハン?」
「誓いのキスだよ。取引成立のしるし」
「そ、そうか」
先程までとは打って変わってうろたえるテンマ。手の甲どころか唇にも口づけたことを知ったら彼はどう思うか。二回り近くも歳が離れたテンマの思いがけない反応に、ヨハンは思わず笑みを零す。
「……ヨハン」
テンマは一瞬目を見開き、それから顔を綻ばせるようにして笑った。
◇ ◇ ◇
あの雪の日、テンマの前にヨハンが現れてからひと月が経った。
念のため、テンマはMSFの予定を入れず非常勤の仕事に専念していたが、ヨハンは約束通り罪を犯すこともなく、テンマのアパートで平穏な日々を過ごしている。周囲も今のところ、別段目立った動きは見られない。
二人の生活はまだぎくしゃくする時もあるが、それなりに上手くいっているとテンマは思う。あることを除けば、であるが。
夕食も済ませ、リビングでくつろいでいた時のことだ。
「先生、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ソファで本を読んでいたテンマに、ヨハンはいつものように挨拶を交わす。彼は基本的にはテンマにも礼儀正しく、また律義でもあった。が、ここからが問題だ。
「――って、うわっキスはよせ!」
「なぜ?」
「なぜって、だめなものはだめ!」
ヨハンは事あるごとにテンマにキスを仕掛けてくるようになった。それも頬や額ではなく口に、挨拶のついでといった様子で平然とだ。
子供が親にキスをねだるのと似たようなものなのか、もしくは別の意図を含んだものか。あるいは両方なのか、どちらにしろテンマには判別がつかなかった。ヨハンの態度があまりにも飄々として捉え所がないからだ。テンマの文句にもどこか楽しんでいる節さえ感じられる。
「はあ……しかし君ってこんな性格だったか……?」
「さあ? 僕の性格なんてどうでもいいけど、先生が可愛いからキスしたくなるのかも」
「わああやめてくれ!」
涼しい顔して事もなげに言うヨハンに、テンマは赤面しながら耳を塞ぐ。ヨハンの真意が掴めず、どうもからかわれている気がして落ち着かない。テンマも時々うっかり見とれてしまうほどヨハンは端整な容姿をしているが、だからといってそう易々と受け入れる訳にはいかないのだ。
じっと目を瞑っていると、ヨハンが何も言ってこないことに違和感を覚え、テンマはヨハンの顔を見上げる。彼は静かに笑みをたたえていた。
「ヨハン……?」
「やっぱり、やめておけばよかったと思ってる?」
「何を言って……」
「やめたくなったらいつでも言って。取引解消するから」
そこで取引の話だとようやくテンマも理解する。
「……思ってないよ。君は何も気にしなくていいんだ。だからさっさと寝なさい」
テンマはソファから立ち上がり、ヨハンの髪をくしゃくしゃと掻き回す。仮面のようなヨハンの顔に、わずかに安堵の色が浮かんだように見えて、テンマも胸を撫で下ろす。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
再度挨拶を交わし、以前は物置として使っていた寝室にヨハンが向かう。ヨハンの後ろ姿を見送ると、テンマは再びソファに腰を下ろした。
感情がないように見えてヨハンにもちゃんと感情はある。わかっているはずなのに、テンマは時々それを忘れてしまう。あの薄い笑みの向こうには、幼い頃に引き裂かれた複雑な心情が見え隠れしている。
もちろん、同居については後悔なんてしていない。ひと月前、テンマと暮らしたいと話を持ちかけてきたヨハン。彼が抱いた人間らしいささやかな望み。それなら応えてやりたいと思ったからテンマも取引を引き受けた。ただ、ストレートに好意を向けてくる彼にどう接したらいいのかわからないだけだ。
『ずっと会いたかった』
突然、ヨハンの台詞が脳裏をよぎり、テンマはどきりとする。なるべく考えないようにしていたヨハンの気持ち、それは――。
そこまで考えて、テンマは首を横に振る。今は知らなくていい。今はまだ。
顔の火照りを紛らわせるために、テンマはテーブルに置いてあったペットボトルの天然炭酸水を口に流し込む。だが、気の抜けた炭酸水ではそれも叶わないのだった。
<了>