Licht <前編>

 今の自分を過去の自分が知ったら何と言うだろうか。


 まだ己の中に怪物が棲んでいると信じて疑いもしなかった頃、実直かつ高潔なDr.テンマを翻弄するのは、ヨハンにとってこの上ないゲームのようなものだった。テンマと親しい関係にある者をあえて殺さなかったのもゲームの一環に過ぎず、ヴォルフ将軍とは異なる方法でテンマを孤独に追いやるためでしかなかった。


 何よりも興味を掻き立てたのは、ヨハンの残したメッセージにテンマが振り回されることだった。テンマはいつだって必死で、悲壮なまでにあがき続ける彼を見るのがヨハンはたまらなく好きだった。


 だが、いつしか気づいてしまった。掌の上で踊っていたはずのテンマに掌握されていたのは、むしろヨハンのほうだったということに。
 ――いや、本当は初めて会った時からもうとっくにテンマに籠絡されていたのかもしれない。なぜなら彼は親以上の――神にも等しい存在だからだ。


 テンマとの同居を始めた当初はただそばにいることに満足していた。この生活を手離すまいと従順な振る舞いを演じているだけで充分だったのだ。しかし、もうそれだけでは満たされないことをヨハンは自覚し始めている。


 初めて欲望を知った。
 こんな感情、今まで知らなかった。どす黒い欲情など、彼にしか抱かない。
 テンマに優しくされるたび、ますます貪欲になっていく自分がいる。


 以前はただまばゆい光に過ぎなかった。今は、もっと光を取り込みたい、取り込まれたいという渇望だけがヨハンを支配している。



 その日のテンマは普段よりも早めの帰宅だった。ヨハンが夕食の支度をしている間、テンマは居間のテレビを点け、新聞を読みながらゆったりと過ごす。多忙な彼にとって数少ないくつろぎの時間だ。
「先生、夕食できましたよ」
「お、そうか。今日は何かな」
「レバークネーデル・ズッペです。それとカイザーゼンメルも買い足しておいたのでどうぞ」
「ああ、ありがとう。じゃあ、ロースハムとゴーダチーズも挟んで食べようかな。まだ残りがあったはず」


 テンマが新聞を畳もうとしたその時、テレビから流れた音声に新聞を持つ彼の手がわずかに止まった。小さな反応は一瞬のことで、すぐにテンマは何でもない素振りでテレビを消す。が、ヨハンはそれを見逃さない。ニュースはごくありふれた傷害事件だったが、被害者の名前にテンマは反応したのだ。


 それは昔、テンマの目前でヨハンが処刑した人物と同姓同名の名前。
 そのニュース自体はヨハンともその過去の人物とも何ら関わりはなく、全くの偶然だろう。それでもあの夜の記憶がテンマの中で今も尾を引いているのがわかる。


 ヨハン自身はあの処刑を後悔したことはない。また、する資格もない。だが二人の過去は、今でも互いに暗い影を落とし続けている。そしてそれは、ヨハンが殺した人間の数だけ存在し続けるのだ。これからも変わらずに、ずっと。



 ある日のこと。
 キッチンに立ち、夕食の準備をしていると、ヨハンの携帯電話にテンマから連絡があった。携帯電話は同居生活を始めた時に新たに購入したものだ。
『ヨハン、今日は遅くなるから、夕食は先に済ませておいてくれ』
「はい。ということはオペですか?」
『いや、同僚に飲みに誘われたんだ。ビアガーデンに』
「ああ。わかりました」
 電話を切ると、ヨハンは息を吐いた。そういえば今はそういう季節か。ドイツでは春から夏のシーズンにかけて、至る所に屋外のビアガーデンが開かれる。
 手早く食事を作り終え、一人きりの夕食を済ませると、ヨハンは窓の空を見上げた。空はまだ高く、透き通るように青い。緯度の高いドイツでは、夜の時間になっても昼間のように明るいのだ。


 今日もあの場所へ行こう。
 テンマが当直などで留守にしている時、ヨハンは最近決まってある場所へ向かうことにしていた。以前テンマと二人で訪れた場所……公園の丘だ。


 高い所は好きだ。
 周囲を見渡せて、安心できるからだろうか。怪物――フランツ・ボナパルタから逃げ続けた過去を持つヨハンにとって、その傾向は必然の成り行きだったのかもしれない。
 青空の下、市街地を一望に見渡すと、ヨハンはぽつんと一本だけ生えている木の根元に座り、本を取り出した。葉を豊かに繁らせた大きな木は、風が吹くたびに木漏れ日を揺らし、本を読み耽るヨハンをやさしく照らす。テンマと訪れた思い出のこの場所で、静かな時を過ごすのが近頃の習慣だった。


 やがて辺りが暗くなり始めると、ようやくヨハンは顔を上げた。日没の時刻となり、雲は茜色に染まっている。テンマと一緒に見た時と変わらない風景が目の前に広がっていた。
 またいつか彼とこの夕陽を眺めることができるだろうか。
 ヨハンはそんなことを考えながら、丘を下りた。


 その帰り、公園内の池のほとりにあるビアガーデンを、もしかしたらと思い覗いてみる。読みが当たったようだ。ヨハンは端のテーブルにテンマの姿を見つけた。テンマは中年男性と若い男性、それに若い女性とビールを飲みながら楽しそうに談笑している。彼らがテンマの言っていた同僚なのだろう。ヨハンは池を挟んだ遠い位置にいるので、テンマはヨハンに気づいていない。


 しばらく見ていると、テンマと女性が席を立った。他の二人はまだ飲み続けるつもりらしく、テンマと女性だけがもう帰るようだ。二人はタクシー乗り場だろうか、そこに向かって歩き始めた。アルコールも入っており、テンマは女性に屈託ない笑顔を見せている。女性も満更でもなさそうだ。


 不意に襲われる、この感覚。まるでナイフで貫かれたような胸の痛みは。
 ――わかっている。これは嫉妬だ。


 胸の奥にくすぶる淀んだ感情を、ヨハンは自覚せずにはいられない。もちろんあの二人がどうこうというわけではないことは理解している。テンマは博愛的だ。命の平等を掲げ、それを体現する彼は、誰からも慕われて当然なのだろう。だから対極にいるヨハンも彼に惹かれた。


 だが、彼はなんて遠いのだろう。この実際の距離以上に、大きな隔たりを感じる。かつてヨハンを殺すために追い続けてきた時のほうが余程、ヨハンへの執着は強かったように思う。


 それでもテンマは情深く、優しい。この前ヨハンが眠れなかった時も、抱きしめてくれた上に一緒に眠ってまでそばにいてくれた。そのせいで、すっかり忘れていた。自分がただの監視対象に過ぎないということに。


 初めに心に決めていたではないか。距離を見誤らない、基本は付かず離れずだと。どうして忘れていられたのだろう。彼は元から遠い存在なのに――。
 これ以上、テンマの笑顔を見ていられず、ヨハンはその場を後にした。


 家にはテンマのほうが早く帰宅していた。
「おかえり、ヨハン。家にいないと思ったら、外に出かけていたのか」
「ええ、少し風に当たりに。……ビアガーデンはどうでした?」
「ああ、久しぶりで楽しかったよ。やっぱりドイツのビールはいいね」
「そう、それはよかった」
「……ヨハン? どうした?」
「……何か?」
「いや……顔色がすぐれないと思ったから」
 こんな時、テンマは本当に鋭い。ヨハンは口許を上げて笑ってみせる。
「別に何も。心配しなくても、この間のようにはならないから大丈夫ですよ。ただ少し疲れたみたいだ。もう寝ます。……おやすみなさい、先生」
「あ、ああ、おやすみ。……ヨハン!」
 部屋に戻ろうとしたところ、突然テンマに左手首を掴まれた。ヨハンは驚いて振り返る。
「先生?」
「何か心配事があるのなら、いつでもいいから私に相談しなさい。いいね?」
 テンマは真剣な面持ちでヨハンを見つめてくる。心から気遣っているのだろう、ヨハンの思いなど何も知らずに。
「……ありがとう、先生。でも本当に何でもないから」
「でも……」
「……手」
「え?」
「手を離してください。少し痛い」
「あ、ああ、ご、ごめん」
 テンマが申し訳なさそうに掴んでいた腕をぱっと離す。おやすみなさい、ともう一度ヨハンは告げ、自室に入るとドアの内側に立ち止まる。思い返すように、掴まれた左手首を口許に寄せた。本当は大して痛かったわけではないが、彼に触れられた腕がじんじんと熱い。


 ――相談か。本当のことなど話したら、彼はどんな顔をするだろうか?
 困惑か、苦悩か、――それとも嫌悪か。いずれにしろ、ヨハンの望む顔ではないことは確かだ。



 それから数日が過ぎた、ある晴れた日の午後。ヨハンは街の市立図書館を訪れていた。テンマと暮らし始めてからよく利用している図書館だ。今日はヨハンの読む本の他に、テンマに頼まれていた本もあった。慣れた足取りで目的の本を探すが、そんなヨハンも図書館の隅にある絵本のコーナーだけは近寄れずにいた。


 目当ての本を数冊借り、図書館を出る。街を歩いていると不意に懐かしさを覚えた。
 ヨハンが心の底から会いたくて、けれど会うのを恐れている――妹の気配。今日のように、ヨハンはこれまでにも何度か彼女の気配を察知することがあった。
「アンナ……?」
 辺りを見回してみるが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。


「先生? 頼まれていた本、借りてきましたよ」
 テンマの部屋のドアをノックする。今日はテンマの休みの日だ。部屋に入ると、テンマはベッドで仰向けになって眠っていた。その胸には読みかけの本がある。どうやら本を読みながら途中で寝てしまったらしい。相変わらず、この部屋は本で溢れている。それを整理するのもヨハンの仕事のひとつだった。


 借りてきた本を机に置くと、白く透けたカーテンが儚げに揺れた。開いた窓の隙間から、暑すぎず、爽やかな風が部屋に流れてくる。その風に乗って、すうすうと寝息を立てているテンマの黒髪も小さくそよぐ。光に満ちた、とても穏やかな午後の時間。


 ここはテンマの世界だ。ヨハンなどには不釣り合いの、テンマだけの。
 テンマは確かにこうして目の前にいる。昔よりずっと近くにいるはずなのに、ヨハンにとっては今も変わらず遥かに遠い――。


 最初は距離を確かめるためだった。
 ヨハンはベッドに手を付き、テンマの閉じた瞼の上に唇を落とす。テンマは目を覚まさない。ヨハンはそれでも飽き足らず、胸の本を脇に置くと、覆い被さるように今度は唇に啄ばむようなキスを繰り返す。するとテンマの腕がヨハンの背中に回されてきた。一瞬、起きたのかと思ったが、テンマは夢を見ているようだった。
 ずっと切望していたテンマとのキス。それは次第に深いものへと移行していく。ゆっくりと舌を絡み合わせ、吸い続けると、テンマもヨハンのキスに応えるような形になった。ヨハンは深く深く、テンマとのキスを味わう。


 夢の中で、テンマは誰とキスを交わしているのだろうか。
 他の誰でもない、僕だけを見てほしい。僕のことだけを――。


 夢中でキスしていると、テンマの手がヨハンの肩を押した。……ようやくテンマが目を覚ましたのだ。ヨハンは名残惜しく唇を離す。テンマは上体を起こし、顔を赤くして弱々しく言葉を発する。
「ヨハン、何して……」
「したかったから、キスしただけ」
 ヨハンが抑揚のない声で答えると、テンマは当惑の表情を浮かべた。
「先生は知らなかった? でも僕はずっとこうしたかった」
 気持ちを抑えきれなくなったヨハンは、淡々と想いを告げる。冷静なヨハンとは裏腹に、テンマはひどくうろたえている。
「先生はそばにいると言った。ずっとそばにいると。そうでしょ?」
「私は……」
「僕はあなたしかいらないんだ」
 ヨハンは再びテンマの唇を塞ぎ、強引に舌を割り込ませる。先程よりもっと激しく、彼の口内を蹂躙する。
 テンマは抵抗するように力一杯にヨハンの胸を叩き、無理やり身体を引き離した。
「……やめろ! こんなのは違う……!」
 息を乱したテンマの黒い瞳には拒絶の色だけが滲み出ていた。
「違う? 何が違うの? 同性だから? 歳が離れているから? ――僕が怪物で穢れているから……?」
 愚問はわかりきっている。おそらくすべてが当てはまるのだから。
「ヨハン、私は……」
「この前、僕と暮らすのは監視じゃないと先生は言ったね。でもそれなら、なぜ僕と暮らそうと思ったの?」
 本当は前からずっと訊きたくて訊けなかった言葉。
 どんな思いで一緒にいてくれるのか、訊きたくてたまらなかった言葉。
 なぜ今この時なのか自分でもわからないが、思わず疑問が口をついて出ていた。
 嘘は許さないとじっと見据えるヨハンに、テンマも目を逸らさずにまっすぐに見つめ返した。そして口を開く。
「……私が引き受けなければならないと思ったからだ。初めから打算がなかったとは言わない。そばにいる私が君に殺されない限り、もう誰も死ぬことはないだろうと思った。……そうだ、そういう意味では監視に近かったのかもしれない」
 自らスケープゴート役を買って出たのだと、そうテンマは告白する。
 ……わかっていた。それでもよかったのだ。そばにいられるのなら。
「でもヨハン、聞いてくれ、今はそうじゃない。世界には光があることを君に知ってほしかった」
 ……光。この人は何もわかっていない。ずっと求め続けていた光が、ここにひとつだけあるのに。
「そんなもの、とっくに見つけていたよ」
「え……?」
「先生、あなただ」
 ヨハンは茫然とするテンマの右手を手に取り、そっと手の甲にキスをする。テンマは抵抗もせず、黙ったままだ。
「これで最後だ。誓ってもう二度とあなたに触れたりしない。……だから先生、僕を置き去りにしないで」


 すべてをなかったことにすればいい。何もかも忘れてしまえ。
 彼の笑顔も身体の体温も――柔らかな唇の感触も。どれも記憶の彼方に葬ってしまえばいい。
 すべてを振り払い、ヨハンはテンマの部屋を出る。


 ――だからお願い。先生、ずっと僕のそばにいて。

<後編に続く>

あとがき


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