君に祈りを

『Mein lieber Dr.Tenma
 おかえりなさい。Yokohamaに滞在するため、しばらく留守にします。Johann』


 たったそれだけが書かれたドイツ語のメモにテンマは言葉を失う。
 ヨハンと同居を始めてから久しぶりに参加したMSF。その任務からアパートに戻ったばかりのテンマを迎えてくれたのは、ヨハンではなくローテーブルの上に置かれた素っ気ない置き手紙だった。


 手紙の文字は逃亡時にも目にした筆跡だ。ヨハンの見目麗しい容姿とはちぐはぐな、子供のようなあどけなさの残る字体。さらに『Mein lieber Dr.Tenma』から始まる文は、額縁に隠されていた壁のメッセージを思い出させる。
『僕を見て! 僕を見て! 僕の中の怪物がこんなに大きくなったよ』……
 あれは結局『なまえのないかいぶつ』の一節を抜き出したものだと後でわかったが。


 テンマはリビングの様子を見回す。帰宅する前に家に電話をしてもヨハンが出ないのは、買い物にでも出かけているのだろうと気にも留めていなかったのに。
 留守電にはテンマのメッセージが残されていたが、ヨハンからのものはなさそうだ。ヨハンの寝室、洗面所も見て回り、彼の物がなくなっていないことを確認する。カップ、歯ブラシ、ルームシューズ、本。どれもそのままだ。大丈夫。ヨハンはまた戻ってくるはずだ。


 だがなぜ、Yokohama――横浜なのか。なぜヨハンがテンマの実家のある場所に?


 不意にヴォルフ将軍のやつれた姿が脳裏をよぎる。標的とする人物の周囲の人間を殺害していき、標的を孤独に陥れる――。以前のヨハンのやり方を思い出し、テンマはぞっとする。


 テンマと取引を交わしたヨハンを信じない訳ではない。だがもし日本にいるテンマの家族や友人に被害が及んだら――。


 握った手にじわりと汗が滲む。無意識に携帯電話を手にし、そこでヨハンの番号を知らないことに初めて気づいた。それどころか彼が携帯を所持しているのかどうかも記憶にない。半年も一緒に暮らしてきたのに、ヨハンのことをまるで知ろうとしてこなかったことをテンマは恥じた。


 ヨハンの部屋にもう一度入り、机の上に数冊の本を見つける。和独辞典や日本語の本。ヨハンがこれらの本を時々読んでいたのはテンマも知っていたが、それも日本に行くためだったのだろうか。「先生のことが知りたいから」とそう彼は言っていた。ヨハンに日本のことや日本語を訊かれては答える、そんな穏やかな日々を思い返すと、無性に切なくなった。


 長く家を空けるのは――MSFに参加するのは、まだ時期尚早だったのだろうか。


 一緒に暮らすようになって、平穏な生活を送っていたように見えたヨハン。同居を始めてから数か月経った頃、ヨハンに尋ねたことがあった。MSFの活動も短期の参加ならどうだろうかと軽い気持ちでテンマが申し出たのだ。とはいえ反対されるかもしれないとも内心では考えていたのだが、意外にもあっさりと承諾され、拍子抜けしたのを覚えている。
 一か月半もの間、彼と離れることに不安がなかった訳ではない。けれどヨハンの様子が落ち着いていたこともあり、問題ないだろうとの結論に至った。テンマがアパートを発つ時も、ヨハンは微笑んで見送ってくれていたのに。


 やはりこの判断は間違いだったのか?
 いきなりこんな行動に出るなんて、まだ目を離すべきではなかったのだ。


 テンマは机の上に置かれた本の表紙に目を向ける。そこに描かれている日本。
 高校を卒業して逃げ出すように家を出てからもう20年以上となる。事件後も実家の家族には時折電話や手紙で連絡しているが、こんな形で帰郷することになるとは夢にも思わなかった。
 故郷へ――テンマは日本に旅立つ決意を固めた。



 予約しておいた横浜のホテル。部屋に入ると、テンマはひとまず荷物を置いた。何年も帰っていないため家族に迷惑がかかると思い、宿泊は実家ではなく近くのホテルを選んだ。
 ベッドに腰を下ろしテレビを点けてみるが、特に目立ったニュースはない。新聞を読んでも、それらしき事件は起きていないようだ。携帯で実家に電話をかけるとドイツを発つ時と同じように誰も出なかった。テンマは幾分不安を覚えながら、上着を抱えて部屋を出た。


 このホテルからなら歩ける距離に家はある。ホテルのエントランスから一歩出ると、うだるような暑さがテンマを包む。そろそろ日が傾く頃だが、青空の遥か向こうに積乱雲が見え、蝉の鳴き声がけたたましい。
 その道すがら、どこからともなく太鼓の音が街に響いていた。今は夏祭りの時期なのだろう。


 賑やかな通りを抜け、テンマは額に汗を滴らせ息を切らしながら緩やかな坂を上っていく。立派な門構えの邸宅が立ち並ぶ、緑の多い閑静な住宅街。見晴らしのいい丘の一画に、テンマの実家はあった。


「天馬」と書かれた表札を一瞥し、大きな家を見上げる。ドイツに渡るまでずっと暮らしてきた、懐かしきかつての家。とりあえず外から見た限り、変わった様子はないようだ。
 インターホンを押そうとしたその時、テンマが来た道の反対側から人が歩いてきた。前より老けてはいるが、テンマもよく知っている人物だ。右手にスーパーのビニール袋を提げ、テンマと目が合うと立ち止まった。
「――賢三? お前、賢三か?」
「……兄さん」
 二番目の兄との、久しぶりの再会だった。



「電話をかけたんだけど、誰も出なくて」
「あー親父と母さん、二人で旅行中なんだよ。明日には帰ってくるってさ。で、俺はちょっと前にこっちに帰省してきたんだけど、外出することも多かったしな。賢三、ツキがないなあ。ま、ちょうど俺と会えたんだからそうでもないか」
 ピッチャーに入った冷えた麦茶をグラスに注ぎながら、兄が笑う。
 三歳上の次男である兄は、現在は無医村で医師をしているそうだ。突然姿を見せた不肖の弟にも気を遣い、ドイツの事件については何も触れずにいてくれる優しさが、テンマにはありがたかった。居間でひとしきり互いの近況を語り合うと、兄がこんなことを言いだした。
「しかし奇遇だな。数日前、お前の患者だったっていう青い目の外国人が家の前に来て、色々と話したんだ」
「……え」
「びっくりするくらい綺麗な顔だったなあ。えーと、名前は何ていったっけ。ああ、エーリッヒ、かな。流暢な日本語だったよ。日本に来たついでに恩人の故郷に立ち寄ってみたんだとさ」
 ――ヨハンだ。テンマは強く確信する。
 エーリッヒ。いつだったか耳にしたことのある名前だ。おそらく偽造したパスポートにもその名前が記されているのだろう。
「まあ俺もいきなり現れた外国人に最初は警戒してたんだが、お前の手術に救われて今は感謝してるって聞いたら、兄としては誇らしくなってなあ」
 兄ははにかむように頭を掻いた。人懐こい性格の兄を懐柔するくらい、ヨハンには訳もないことだったのだろう。
 テンマは口調を合わせ、尋ねてみる。
「そうか、元気にしてるんだ。それで彼がどこに行くか兄さん聞いた?」
「いや、詳しくは聞かなかったが、しばらくホテルに滞在するって言ってたな。そういや今日近くの神社でお祭りがあるって教えたら興味を示してたから、もしかしたら会えるかもな」
「お祭りに? 確かに来る時も太鼓の音がしてたけど」
「そうそう。あの音を不思議に思ったみたいで訊いてきたんだよ。やっぱり外国人には物珍しいんだろうな」
 ドイツでヨハンと暮らしていた頃、日本についてテンマにあれこれ尋ねてきたヨハンを思い出す。テンマもそんな彼とのやりとりが嬉しくて、訊かれる度に丁寧に答えた。
 そうだ、彼に会わなければ。テンマは残りの麦茶を飲み干すと、腰を上げた。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「え、もう行くのか。ホテルじゃなくて家に泊まっていけばいいのに」
「いや……悪いから」
 遠慮がちに断るテンマを、兄はまっすぐに見つめる。
「なあ賢三。親父も母さんも兄貴も……みんなお前に会いたがってるから。また来いよ」
「うん。……ありがとう」
 テンマが門を出た後も、兄は姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。兄の言葉が事実なら、家族は皆無事だろう。


 ――ヨハン。今、何を考え、何を見ている?


 日が落ちて、西の空は鮮やかな茜色を帯びている。兄から聞いた神社を目指し歩いていくと、神社に近づくにつれて笛や太鼓のお囃子の音が次第に大きくなってくる。浴衣を着た子供や女性の姿も見られ、どこか懐かしい雰囲気にテンマは目を細めた。


 子供の頃から慣れ親しんだ神社に着くと、規模は大きくないが、屋台や人でごった返していた。広場には櫓が組まれ、多くの人が盆踊りを楽しんでいる。
 テンマは鳥居をくぐり、人で溢れ返る参道を進む。すると視界の先に一際目を引く金髪を見つけた。周囲の日本人と比べて背の高い、白金の髪の青年。テンマに背を向けて、10メートルほど離れた先を歩いている。すらりとした出で立ちは後ろ姿でも間違えようがない。彼だ。


「ヨハン」
 テンマはその名を呟き、歩を速めて人混みをかき分けていく。小さな声は雑踏にかき消され、この距離では彼の耳には届かなかったはずだ。だが反応したかのように立ち止まり、ゆっくりと彼が振り返る。氷のような青の瞳がテンマを捉え、大きく見開いた。最後に会った時と何ひとつ変わらない、美しい姿。一瞬、テンマは息を呑み、すぐに我に返る。
「ヨハン」
 ヨハンの側に詰め寄り、もう一度彼の名を呼ぶ。さらにその白い手首を掴んだ。
「先生」
「こっちだ」
 ヨハンの腕を掴んだまま人の列から離れ、ようやく腕を離す。ちらりと周囲を見回すと、突き刺さる好奇の視線が痛い。ヨハンの容姿はこの場では明らかに目立ちすぎる。
「今は場所を移そう」
 神社の奥に向かうテンマの後ろをヨハンが続く。二人は無言のまま提灯や灯籠で仄かに照らされた参道を歩いていく。狛犬の間を進み、拝殿の横でテンマは足を止めた。露店で人が溢れていた入口と比べ参拝客はまばらで、境内は静寂を保っている。空は大分暗くなってきたが、拝殿に灯っている明かりでヨハンの表情も見て取れた。


「ここなら色々話せるか」
「なぜ僕が日本に来たのか、とか?」
「ああそうだ、なぜ日本なんだ? 私の留守の間にどうしてこんな行動をしたんだ」
 ヨハンを責めるつもりはなかったが、問い質す口調には多少それが滲み出ていたかもしれない。力が入り、足元の砂利が音を立てる。ヨハンは顔を逸らすとぽつりと呟いた。
「別に……あなたの生まれ育った故郷の国をこの目で見たくなったんだ」
「私の国を?」
「先生からMSFに行くと知らされた時、僕は静かに受け入れた。それが約束だったからね。でもあなたが家を出てからおかしな感情に襲われたんだ。そう……あれは『寂しい』かな。どうしてだろう、今までずっと独りだったのにね」
 僅かに口角を上げてヨハンが笑う。
「寂しくて寂しくて……ある日思い立ったんだ。あなたの国に行ってみたいと。それが一週間前」
 淡々と語るヨハンの言葉がテンマの胸をざわめかせる。寂しいなんて人なら当たり前に感じるものをおかしな感情と言う彼が悲しく、またそんな気持ちにさせたことを申し訳なく思った。
「もちろん、僕が日本にいる間にあなたが任期を終えて帰ってくることもわかっていた。先生が帰ってくる前にアパートに戻ることもできたけれど、そうはしなかった。僕は契約を破ってしまったことになる」
 テンマが仕事で留守にしている間、ヨハンは罪を犯さず家を守る。それが二人の間に交わされた取引だった。


「どう? 契約を解消する?」
 仮面のような笑みを浮かべ、とても寂しがっていたとは思えない顔でヨハンは問う。
 ……否、傍から見れば余裕さえ感じられるが、彼の場合そう見えるだけだ。今のテンマにはヨハンの寂しいという言葉が嘘ではないと素直に受け止めることができた。


 テンマはヨハンの顔をじっと見ると、大きく息を吐く。
「……君は狡い。寂しかったなんて聞かされたら解消できる訳ないじゃないか」
 テンマの文句にヨハンがふっと笑う。
「ごめんなさい、試すようなことをして。でもここまで追いかけてきてくれたのは本当に嬉しかった。たとえそれが僕を疑うことだとしても」
 最後の言葉にテンマの胸がずきりと痛む。テンマの猜疑心をヨハンは見抜いていた。合わせる顔もなくテンマは俯く。
「……すまない。私は確かに君を疑っていた。すまない……」
 ヨハンは何も言わない。二人の間に沈黙が流れ、くすぶるような蝉の鳴き声と祭囃子の喧騒が遠く聴こえる。


 しばらくして口を開いたのはヨハンのほうだった。
「さっき、ひどく驚いたんだ。あなたに会いたいと心の中で願っていたら、あなたの呼ぶ声が本当にしたから」
 テンマは顔を上げ、ヨハンを見る。耳に残る、闇に溶けるかのようなヨハンの声。
「日本の空気、匂い、人。何もかもドイツやチェコとは違う。ねえ、先生も子供の頃よくここのお祭りに来たんでしょ?」
「……ああ、兄さんから聞いたのか。そうだよ、夏祭りになると兄さんたちや近所の子たちとよく遊びに来たな」
 金魚すくいに綿あめ、ヨーヨー釣り。胸を躍らせ大好きだった夏祭り。懐かしさが込み上げ、やはり自分は日本人なのだと実感する。
 子供の頃か――ヨハンとの会話で、あることにテンマは気づく。
「じゃあヨハン、今日君が神社に来たのは、それを聞いたからなのか?」
「ええ、あなたの少年時代を辿ってみようと思って。以前の先生が僕の過去を調べていたのと同じようにね」
「……そうか」
 妙に気恥ずかしいのはなぜだろうか。頬に赤みが差すのを自覚したテンマは話題を変える。
「私の実家もよくわかったな」
「まあね」
「兄さんと日本語で会話したんだって? 君がこんなに話せるなんて知らなかったよ」
「日常会話程度には。他の言語より覚えるのが難しかったけど」
「へえ、ヨハンでもそうなのか。じゃあ夏の日本はどうだった?」
「ああ。……思った以上に蒸し暑いですね。蝉もこんなにうるさいとは思わなかった」
 眉根を寄せて珍しく愚痴をこぼすヨハンにテンマは思わず苦笑する。
「さすがの君も日本の暑さはつらいか。でも蝉の鳴き声、私は好きなんだけどな。そうだ、寄ったついでにお参りしていこうかな。いいかい?」
「どうぞ」


 テンマは拝殿の正面に回ると、賽銭箱に硬貨を入れ、大きな鈴を鳴らす。その少し離れた所でヨハンが様子を見守っている。彼の青い目にはこの行為がどんなふうに映っているのだろうか。


 ――願い事はどうしようか。


 ふと後ろに控えているヨハンの顔が思い浮かぶ。「もうヨハンが罪を犯すことがありませんように」と考えたところで、おそらく彼が不法入国だったことを思い出した。迷った末に落ち着いたのは。


 ――彼がもう傷つくことがないように。どうかヨハンをよろしくお願いします。


 ヨハンを疑ったテンマがこんなことを願うのは虫が良すぎる話だろう。ましてやヨハンの生まれや育ちにまったく関わりのない日本の神社に願うなんて。それに彼の罪がこれで消える訳でもない。言うまでもなくテンマの罪も。
 それでも、どうかこの祈りがヨハンに届きますように。


 参拝を終えると、何やら興味深そうな顔をしたヨハンがこちらを見ていた。
「ヨハン、何なら君もお参りしてみるかい」
「いえ、僕は」
「でもせっかく来たんだし……あ」
 ひょっとして宗教上の理由か、と言いかけてヨハンに限ってそれはないだろうと思ったところで、ヨハンが首を振る。
「僕にとっての神様は、世界にただ一人だけだから」
「え……そう、なのか……?」
 ヨハンの意外にも思える言葉にテンマは目を瞬きさせる。いつの間にそんな敬虔な人間に改心していたなんて、と半ば感動すら覚えてしまう。
 まじまじとヨハンを見つめていると、ヨハンが口を開いた。
「……ねえ先生、お願いがあるんだ。いい?」
「うん? 何だい?」
「キスしてもいい?」
「……は?」
「久しぶりに先生に会えたらしたくなったんだ。ね?」
 そう言いながらヨハンの手がテンマの頬に触れ、身体を引き寄せてくる。
「ちょ――ヨハン、だ、だめだ!」
 ヨハンの口に掌を当て、テンマは何とか制止する。慌てて周りを振り返ると、境内には誰もいないようでほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあこれで」
 口に当てていたテンマの手首をヨハンが掴み、許可を求めるように上目遣いで視線を送ってくる。観念するしかないテンマはため息をついた。
「……いいよ」
 ヨハンはにこりと微笑むと恭しく手の甲に口づけを落とす。


 あの雪の日から始まった二人の儀式。もやもやと得体の知れない感情を心に抱きながら、濃紺色に染まり始めた空をテンマは仰いだ。

<了>

あとがき


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