翠玉

 アンナに会いたい。


 最近、彼の心を揺るがしているのは妹の影だ。
 街にいると時折感じる彼女の気配。それに加えて、先日ディーターから彼女の様子を聞いた。それ以来どうしても頭から離れずにいる。
 長い間、己の分身だと思い続けていた双子の妹。だが、それが偽りだったと思い知らされた時、彼女との距離が掴めなくなっていた。


 洗面所の鏡を見つめてみる。鏡の向こうには、彼女とよく似た彼がいる。昔、アイスラー記念病院から抜け出し、彼女と離れて独りになった後も、よくこうして鏡を覗いたことがあった。君は僕で、僕は君。独りの時もずっと、それだけを信じて生きてきた。
 以前、チェコで彼女の姿になった時のことを思い出す。あの時は、ただ記憶の糸をたぐり寄せるためだったけれど。


 アンナに会いたい。


 その切なる願いは、彼をある行動へと駆りたてる。薄く化粧を施し、ロングのウィッグを着け、白のワンピースを身に纏う。
 そうして再度、彼は彼女に生まれ変わる。鏡の中の彼女がこちらを見返している。


 ……アンナ。こんな自分を君は笑うだろうか。それでも、僕は――。
 彼は彼女に触れるように、そっと鏡に右手を伸ばした。


◇ ◇ ◇


 いつものように仕事を終えたテンマは、病院から車で帰宅する途中だった。初夏のドイツは、帰宅の時間となってもだいぶ明るい。街路樹の緑はとりわけ鮮やかで、本当に気持ちのいい季節になった。
 また、ヨハンとピクニックもいいかな。
 そんなことを考えながら車を走らせていると、歩道にいる金髪の長い女性がちょうど目に入る。見覚えのある懐かしい横顔だ。もし彼女なら、なぜこんな所に?


 久しぶりに目にした彼女のことが気になり、テンマは路肩に停車する。車を降りると、彼女は若い男と親しげな様子でもなく何やら話している。やや気が引けたが、思い切って背後から声をかけた。
「――ニナ?」
 しかし、振り返った彼女はニナではなかった。確かによく似ているが、近くで見れば、その顔つきと雰囲気はどう見ても彼女の双子の兄、ヨハンのそれだ。背丈もニナより幾分高い。突然のことでテンマは混乱する。かつてチェコで、金髪の女として事件を起こしていたのは覚えているが、なぜ今になって――。


「へえ、君、ニナって名前なの?」
 そばにいた男が軽薄な笑みを浮かべ、そう口にする。どうやらヨハンの知り合いというわけではなさそうだ。
「いったい君は――」
 ヨハンを問い質そうとテンマがさらに詰め寄ると、男が無理やり割って入る。
「あんた、この子の何? 今は俺が話してんだから邪魔すんなよ」
 テンマが口を開こうとした時、ヨハンがテンマの腕を組み、次の瞬間とんでもないことを言い放った。
「愛人」
「え」
 男とテンマ、二人の声が同時に重なる。
「私、この人の愛人なの」
 テンマと腕を組んだまま、にっこり微笑んで突拍子もないことを言ってのけるヨハンに、テンマは思わず青くなる。ニナよりやや声は低いが、その声色は女そのものだ。一体どこからそんな声が出せるのか。香水まで付けているのか、ほのかな花の匂いにくらくらする。
「ねえ先生、私が遅いから迎えに来てくれたんでしょう?」
 ヨハンはテンマの車を一瞥し、組んだ腕を合図のように小さく揺らす。
「あ、ああ」
 テンマは調子を合わせ、とりあえず頷いた。その場で唖然とする男を置いて、二人は腕を組みながら停めていた車に乗り込んだ。


「一体いつから君は私の愛人になったんだ」
 テンマはシートベルトを締めながら、呆れたように隣のヨハンに文句をぶつける。車窓の外には今も苦虫を噛み潰した顔の男が見える。
「すみません。でも最近しつこかったので助かりました」
 涼しげな顔で悪びれる様子もなく、しれっと言うヨハン。声も普段のものに戻っている。
「最近? 絡まれたのは初めてじゃないのか。まさかその格好、ずっとやっているのか?」
「ええ、2週間ほど」
「そんなに? 何でまたそんな格好を?」
 テンマは疑問を口にしつつ、車を発進させる。
「……ディーターが」
「ディーター?」
「ディーターから、アンナのことを聞いて……」
 いつになく歯切れが悪い。こんなヨハンは珍しい。
「会いたくなったんです。……鏡を見ればアンナに会えるから」
 それを聞いてテンマは脱力する。この青年の思考は時々テンマの理解を軽く越える。
「しかし理由はともかく、一緒に暮らしてたのに私は全然気づかなかったよ」
「あなたにだけは見られたくなかったから」
「私にだけ? どうしてだい」
 テンマにだけという言い草に内心傷つきながら、尋ねてみる。ヨハンは一瞬こちらを見て俯くと呟いた。
「……比べられたくなかったから」


 そこでテンマは突如思い出す。
 警察病院で見た白昼夢。双子の妹と全く同じ身なりの小さなヨハンを、そして、妹を差し出した母が妹と自分を間違えていたのではないか問うヨハンを――。


 ヨハンの過去が重くのしかかり、走り出した車をまた一旦車道の脇に駐車させる。
「先生、あなただけはアンナと僕を間違えてほしくなかった」
 ヨハンにそう言われると、返す言葉もなかった。
「……すまない」
 ヨハンの女装は少なからず心の傷に直結している。遠目だったせいではあるが、確かにヨハンとニナを間違えたのは事実だ。彼の視線に耐えきれず、テンマは目の前のハンドルに目を向けるしかなかった。しばらく重い空気が車内を包んでいたが、沈黙を破ったのはヨハンだった。
「ねえ、先生」
「何だい」
「今日は外で食事していきませんか?」
「え? だってその姿で私といるのは嫌なんじゃ」
「それはもういいんです。まだ日も明るいし、どうですか?」
 ヨハンの青い目に何となく懇願の色が窺えるのは気のせいだろうか。それでもテンマは少し躊躇する。
「でも……」
「心配なら要りませんよ。今の僕が男に見えますか?」
 テンマは改めて隣の人物をじっと見る。元々細身で整った顔立ちではあるが、この出で立ちなら誰も男だとは気づかないだろう。ましてや女声まで出せるというのだから尚更だ。
「……見えないな。そうだな……たまには外食もいいか」
 罪滅ぼしというわけではないが、彼の誘いに乗ることにした。ヨハンと暮らし始めてから、二人でちゃんとした外食というのは初めてだ。


 夕食は、公園内にあるレストランで摂ることにした。前にヨハンとピクニックにも行ったことのある、あの広々とした公園だ。小高い丘の中腹にあるレストランということで、開放的なテラス席を選ぶ。


 食事はなかなかおいしかったが、テンマは周囲の視線のほうがむしろ気になった。やはり、東洋人と白人の組み合わせというのは珍しいのかもしれない。更にヨハンの容姿のせいも確実にあるだろう。最初はヨハンの女装がばれたのかと肝を冷やしたが、杞憂に過ぎなかったようだ。
 元々人の目を引く顔立ちをしているが、こうして着飾っていればなおのこと目立つ。当の本人は他人の視線にも慣れているようで、いつもと変わらない様子ではあったが。


 以前、中年夫婦連続殺人事件の現場を追い、ヨハンの子供時代を尋ねて回った時、誰もがヨハンの顔を思い出せず、目立たない子だったと口々に言われた。
 今の彼ならば――もちろん女装は関係なく――誰もそんな印象を抱かないだろう。彼の変化に、テンマは不思議な感慨を覚えた。


 食事を終え、レストランを後にした二人は公園を散策することにした。
「高い所は好きなんです」
 そう言いながら、ヨハンは丘の天辺に向かってテンマの前を軽やかに歩いていく。こうして後ろから見ても、頭からつま先まで見事に女にしか見えない。時折心地よく吹いてくる風が、彼の長い金の髪と白いワンピースの裾をさらさらと揺らしていた。


 ひと気のない丘を登り切り、一本の大きな木を背にして二人は眼下の景色を眺める。遥か向こうの空には太陽が沈み始め、初夏の長い一日がようやく暮れようとしていた。
「ここはいい眺めだな。一面夕焼け色の世界だ」
「世界……。僕はずっと終わりの世界だけを見てきた。あなたに終わりの風景を見せることだけが僕の残された道だった……」
 ヨハンは目の前の風景を見下ろしながら、かつての思いを吐露し始める。風が舞い、彼の髪をふわりと揺らしていく。
「でも今は違う」
 テンマのほうに振り返ると、穏やかに微笑んだ。
「あなたと、この景色を見ることができてよかった」
 ヨハンの幸せそうな表情に、テンマは胸がいっぱいになる。ふと、フランツ・ボナパルタの手紙に書かれていた、双子を指した言葉が脳裏をよぎった。まさしくそれは。


 ――美しい宝石……。


 彼を殺めなくてよかった。彼が生きていてくれて本当によかった。テンマは強く噛みしめる。
「……以前、昔の夢をよく見ると言っていたね。最近はどうだい」
 それはずっと気になっていたことだった。ヨハンは風に揺れる髪を手で抑えながら穏やかな声で答える。
「今も時々。前よりは減りましたが」
「そうか」
 過去を完全に消し去ることはできない。だが、流れていく時間が彼の痛みを少しでも和らげてくれればいい。


「あの時……ミュンヘンからプラハに渡った時、僕はアンナの姿になった。朧げだった遠い記憶を確かめるために」
 ヨハンはプラハで女装していた理由を打ち明ける。プラハでは511キンダーハイムのテープをめぐって様々な事件が起きたが、その中心にいたのが女に変装していたヨハンだった。
 あの時はなぜ彼がアンナを名乗っていたのか、テンマにも理解できなかった。だが、三匹のカエルで何があったのか真相を知ってしまった今なら、少しわかる気がする。
「ヨハンとアンナは二人で一人、僕にとっては妹が唯一の分身だったから、この姿になればプラハでの……三匹のカエルの記憶に辿り着けると思った。本当は分身でも何でもなかったのに」
 ヨハンの横顔は落ち着いていて、そこから感情は読み取れない。テンマは何と言っていいのかわからず、ヨハンの言葉を黙って聞いていた。


「先生」
「ん?」
「アンナに会いたくて今もこんなことをしている僕を、あなたは滑稽に思っているでしょうね」
 ヨハンは自嘲するような笑みを口許に浮かべる。
「……してないよ。そりゃ、びっくりはしたけど。でも会いたいなら、会ったらいい。ニナは君を赦している」
「会えませんよ。先生もとっくにわかっているんでしょう。病院で見せたあの白昼夢が夢ではないことを」
「……ああ」
「どんな顔をして会えばいいのか僕にはもうわからない」
「いつもの君でいいんだよ」
「……率直に言えば、怖いんです。妹に会えば、どうしてもあの記憶を思い出してしまう」
 左手で右腕を抑え、俯くヨハンは普段より幼く見えた。不意に抱きしめたい衝動に駆られ、テンマは動揺する。突然湧きあがった庇護欲を、理性が抑え込んだ。


「それにアンナと会うあなたを見るのは嫌だ」
「え……?」
「間違いなく、あなたはアンナを選ぶから」
 口許だけの笑みをたたえてヨハンはテンマを見る。
 それは幼稚な独占欲から出た言葉なのか、テンマにはわからなかった。いまやヨハンは、テンマに親を重ねている。妹と比べられたくなかったと言ったり、あの母の選択への恐れに似たものを、テンマに対しても抱いているということなのだろうか。それでもヨハンの真意はテンマには測りかねた。


「……ああ、そうか。僕はアンナになりたかったんだ……」
 両掌を見つめて、独り呟くヨハン。その見目形は確かに妹そっくりだ。だが彼はアンナじゃない。どうしたって彼女になれるわけがない。
「……ヨハン、君はアンナにはなれないよ。君たちは別の人間だ。だから……」
 どこか遠い目をしたヨハンに声をかける。テンマにできるのは、名前を呼ぶこと――ヨハンと呼ぶことだけだ。
「……ええ、そうですね。あの子と僕は違う人間、別の存在……」
「ああ、そうだ。もう遅いし、家に帰ろう」
 ヨハンはまっすぐにテンマを見た後、頷いた。日が沈み、眼下の街を覆う紺色の影はさらに大きく広がっていた。



 家に着くなり、ヨハンは服を着替え、化粧も落としてようやく元の彼に戻る。タオルで顔を拭きながら洗面所から出てきたヨハンに、ソファに腰かけたテンマはほっとしたように声をかけた。
「やっぱりその格好のほうがいいな。あのままだと落ち着かないというか、調子が狂うというか」
「確かにこっちのほうが楽ですね。でも」
「ん?」
 子供が悪戯をする時のような顔でヨハンがくすりと笑う。
「『愛人』と言った時の先生の顔、可愛かったですよ。あんな先生が見られるなら、あの姿もいいかもね」
「か、可愛い……。人をからかうのはやめてくれ……」
 テンマは両手で顔を覆い、ため息をつく。二回り近くも年下の青年に、可愛いなんて言われるのは心外だ。
「私は君に振り回されてばかりだな」
 テンマは苦笑しながら、ヨハンを見る。彼と暮らすようになってから、本当に驚くことばかりだ。
「そうですか? あなたのほうこそ、よっぽど僕を振り回していると思うよ」
 ヨハンはテンマの言い分が理解できないとばかりに真顔で言う。テンマは何か釈然としないものを感じつつ、反論はやめておいた。


 ――こちらも、今日はいろんな顔のヨハンを見ることができたから、まあ、いいか。


 テンマはソファにゆったり背を預けて、今日の出来事に思いを巡らせる。すると、あの丘の上での降って湧いたような衝動までも思い出してしまい、居心地の悪さを覚えた。
 人形めいた端整な美貌と高い知能を持ち合わせながら、一方では未熟な精神のままのヨハン。
 そんなアンバランスな彼に対してどう接していいのかわからない時が今でもある。
「じゃあ先生、おやすみなさい」
「あ、ああ、おやすみ」
 部屋に戻るヨハンの背中に目を向けながら、今は覚束ないその感情にとりあえず蓋をすることにした。

<了>


MONSTER作品置き場に戻る
ブログに戻る