Cross

 初夏の陽射しが眩しい、晴れた土曜日。電車とバスを乗り継ぎ、ディーターは一人テンマを訪ねにやって来た。
 一番の目的は、ヨハンの存在だ。
 テンマが元気にやっているかどうかも気になるが、どうしてよりにもよってあの二人が一緒に住んでいるのか、様子を確かめに来たのだ。


 同居するライヒワインには内緒の、ちょっとした小旅行だ。ライヒワインはディーターの前では、ヨハンについて頑なに話そうとはしてくれない。だがある日、ギーレンと電話で話しているのを家で偶然聞き、あの二人がどうやら同居を始めたらしいことをディーターも知ったのだった。


 ――怪物ヨハン。テンマがずっと殺すために追い続けた、ニナの双子の兄。


 結局テンマは殺人を犯すこともなく、それどころか撃たれたヨハンをまた助けたとも聞いた。それについてはほっと胸を撫で下ろしたのだけれど。


 ライヒワインは自分の患者がヨハンに殺されたと言っていた。いつだったか、子供たちの間で流行った物騒な遊びもヨハンの煽動によるものだった。そんな危険な人物とテンマが暮らしていると聞いてから、ディーターはとても気が気でなかった。一時はMSFをやめたと聞いて、今よりもっと会えるんだと密かに喜んでいたのに、一体どうして。


 思い立ったら居ても立ってもいられず、休みを利用してテンマの家に向かうことに決めた。住所はニナから聞き出した。双子の兄であるヨハンとも時折メールのやりとりをしているそうだ。
 一人では少し心細かったが、テンマにもらった大事なサッカーボールがお守り代わりだ。途中、路線を間違えたりと遠回りになってしまったが、何とか日が沈む前の明るいうちに、テンマの住む街にたどり着くことができた。


 アパートの前に立ち、表札を確かめる。間違いなくテンマのアパートだ。エントランスのドアには鍵がかけられており、呼び鈴を鳴らしても不在のようだった。
 他に行くあてもなく、ディーターはサッカーボールを手元で弾ませながらドアの脇に座って待つことにした。しばらくすると、通りの向こうから靴音が聞こえてくる。テンマかと思い、勢いよく顔を上げれば、目の前に現れたのは買い物袋を提げた金髪碧眼の青年だった。
 どことなくニナと面影が似ている気がする。おそらく彼がヨハンだ。何も知らなかったら、この人物の正体が殺人鬼だと言われても到底信じられなかっただろう。


 ヨハンを凝視したまま動かないディーターに、ヨハンも立ち止まって見つめ返す。暫しの沈黙の後、先に口を開いたのはディーターのほうだった。
「……ヨハン……?」
「そうだよ。君はディーターだね」
「ぼ……僕を知ってるの!?」
「もちろん。先生とアンナの知り合いはみんな知ってる」
 アンナ――ニナのことだ。彼女とは違い、兄のヨハンはどこか捉えどころのない雰囲気を纏っている。彼の言葉にディーターは今日の目的を思い出す。
「そうだ、テンマのことで今日は来たんだ」
「先生は病院だよ。今日も忙しいみたいだ。話なら、部屋でするかい?」
 目の前にいるのは、テンマが殺すためにずっと追い続けていた怪物だ。緊張するディーター。しかし、サッカーの練習を休んでまではるばるここへ来たのだ。覚悟を決めて中に入ることにした。


「どこでもいいから座って」とヨハンに言われ、おとなしくテレビの近くのソファに腰かける。「お茶とジュース、どっちがいい」と聞かれたので「ジュース」と答えた。キッチンに取りに行くヨハンを見つつ、ディーターはきょろきょろと部屋を見回す。きちんと整頓されており、清潔感を感じさせるリビングだ。ここが今テンマの暮らしている家。


「ちょうど先生が貰ってきた菓子があってよかった」
 ヨハンがそう言いながら、リンゴジュースの注がれたグラスと菓子をテーブルに置く。斜め向かいのソファに腰を下ろすと足を組み、ディーターに話を促した。
「……で、話って何かな」
 ディーターは疑問を直球でぶつけてみる。
「君は……どうしてテンマと暮らしているの?」
「そう決まったからだよ」
 ヨハンににべもなく返される。ここまで来たんだ。これでへこたれてたまるか。ディーターはジュースを飲んで心を落ち着かせる。
「テンマは……ずっと君を殺すために旅をしていた。あの頃、僕は幼かったけど、テンマが何をやろうとしていたのかはわかってた」
「そう……先生は僕を殺すために追いかけてきてくれた。結局、あの人は根っからの医者だったわけだけど」
 “追いかけてきてくれた”。その言い方に、ディーターは少し引っかかるものを感じた。
「テンマをどう思ってるの?」
「親みたいな人、かな。僕が今ここにいるのは、彼あってのものだ。君も似たようなものじゃないの、ディーター」
「そうだけど、違うよ、テンマは友達だ」
「友達、か」
「そうだよ、友達をいじめていないか僕は見極めに来たんだ」
「ふうん、友達思いなんだね」
 頬杖をついて、ヨハンは揶揄するような表情を見せる。ディーターは気にせず、話を続ける。
「テンマは、僕と旅をしていた時もずっと人を助けてた。でもヨハン、君は――」
「人を殺していた」
 薄く笑みを浮かべたヨハンに先に言われ、ディーターはぎくりとする。その様子にヨハンがくすりと笑う。
「もう人は殺さないよ。僕は“存在する人間”だから」
「え」
「先生がそれを教えてくれた。先生だけじゃなく、僕はもう、誰にも危害を加えたりはしない。……安心した?」
「う……うん」
 “存在する人間”というフレーズが何のことなのかよくわからなかったが、テンマも誰も傷つけないと聞いてほっとする。嘘だったら元も子もないのだが、目の前の人物を信じることにした。
「それにそんなことになれば、もう先生とは一緒にいられなくなるからね」
「え……どういうこと?」
「監視のためなんだよ、この同居生活は」
 監視――テンマにはあまり似つかわしくない言葉だ。あの優しいテンマが、そんなことのために一緒に暮らすなんてあり得るのだろうか。


「少し喋りすぎたかな。この事はトップシークレットなんだ。シリアルキラーがこうして野放しだなんて事実が知られたら、ドイツ中、いや、欧州中がパニックだからね。本来なら君もここに来てはいけないはずだ。これを知っている者以外の誰にも言わないと約束できる?」
「も、もちろんだよ。だってテンマのためでもあるんでしょ」
「よくわかってるね」
 何だか上手く丸めこまれた気がしないでもないが、約束は約束だ。秘密の共有は、不思議な連帯感を生んだ。
「ヨハンはテンマが好きなんだね」
「好きだよ。誰にも取られたくないくらいにはね」
「あっ、僕だってテンマと一緒に暮らしたかったんだ! ずるいよ、ヨハン」
「僕は君のほうがずっと羨ましいけどね、ディーター」
 ヨハンが静かな笑みを湛えて言う。
「え、それはどういう意味――」
 と尋ねたところで、玄関のチャイムが鳴った。テンマが帰ってきたのだ。


「ディーター、やっぱり来てたんだな。家に来ているかもしれないと、ニナから電話があったんだ」
「テンマ! 久しぶり。元気にしてた?」
 やっと会えたのが嬉しくて、テンマに勢いよく抱きつく。暑い外から帰って来たからか、テンマから少しだけ汗の匂いがした。
「ああ、久しぶり。こっちは変わらないよ。あ、また背も伸びたんじゃないか」
「サッカーは大きいほうが有利だもん。もっと伸びるよ」
「はは、そうだな」
 テンマはディーターの後ろにいたヨハンに目を向ける。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「帰るのが遅くなってすまなかったね」
「いいえ。それよりも、ディーターの身が心配でした?」
 微笑を浮かべて平然と言い放つヨハン。ついさっき、テンマのことが好きだと素直に口にしていたのに、どうして自分を貶めるようなことをヨハンは言うのだろう。もう人は殺さない、テンマがそれを教えてくれたとはっきり言っていたのに、まるでテンマを試しているみたいだ。
「……ヨハン。そんなことはないよ」
「ええ、あなたがそう言うのなら、そうでしょうね」
 不穏な空気が流れ、ディーターは二人の顔を交互に見ることしかできない。すると、ぐう、とディーターの腹の音がその場に響いた。
「えへへ……お腹すいたよ、テンマ」
「ああ、そうだな、もうそんな時間か」
「僕が用意します」
 そう言うと、ヨハンはキッチンに向かう。先程の微妙な空気はディーターの空腹のおかげで消えたようだ。


 ヨハンが料理を作っている間、ディーターとテンマはソファに並んで座り、たくさんのことを話した。主に喋るのはディーターで、テンマは聞き役だ。学校のこと、新しくできた友達のこと、今は祖父代わりのライヒワインのこと、大好きなサッカーのこと。ディーターはとにかく思いつくままに喋り尽くした。
「この前、クラブのコーチに褒められたんだ! それでね……」
「あ、そういえばディーター、ライヒワイン先生にはここに来るってちゃんと言ってあるのか?」
「えっ! ……う、うん」
「……言ってないんだな」
 なぜか、バレてしまった。ディーターは開き直って言い返す。
「だってライヒワイン先生に言ったら止められるに決まってるもん」
「しょうがない、彼には私から連絡しておくから、今日は泊まっていきなさい」
「えっいいの!?」
「もう遅いからね。子供一人じゃ心配だ」
「もうそんな子供じゃないよ」
「そうだな」
 笑いながらディーターの頭を軽く叩くテンマ。一緒にいたあの頃は、いつも思いつめて眉をひそめた表情が多かったのに、今はこんな顔もできるようになったのか。
 ディーターは改めて感慨に浸る。それならテンマにとって、ヨハンとの暮らしも悪くないのかもしれない。最初はどうして二人が一緒にいるのか理解できなかったし、ヨハンに嫉妬もしたけれど……。


 ヨハンの作った夕食は、おかわりするほど、とてもおいしかった。長い時間、電車とバスに揺られての小旅行は緊張の連続だったものの、テンマに会えたことでそれが緩んだのだろう。食事はあっという間に胃袋に収まった。


 その夜はテンマの部屋で寝泊まりすることになった。久しぶりだから一緒に眠りたいと、ディーターが頼み込んだのだ。
 テンマとドイツを転々としていた頃、小さなホテルでベッドがひとつしかない部屋に泊まらざるを得ない時、こうして一緒に眠ったこともあったっけ。
 ディーターは薄手の羽毛布団をかぶりながら、懐かしく思い出す。あの頃よりも身体も大きくなって、二人がひとつのベッドで眠るのはさすがにきついことに、年月の流れを感じた。


 照明を落とし、ベッド脇の電気スタンドだけが灯る暗い部屋で、ふと隣のテンマにヨハンのことを聞いてみる。
「ねえ、テンマ。テンマはヨハンのこと、どう思ってるの?」
「ん? うーん、そうだな……時々とんでもないことをさらっと言ってくるところがあるからなあ……だけど何か放っておけないというか、目が離せないというか……言われてみると、難しいな……」
 天井を見ながら答えるテンマに、ディーターは思い切って昼間のヨハンの言葉を投げかけた。
「ヨハンは、監視だって言ってたよ」
「え?」
「この同居は監視のためだって」
「………………」
 テンマは驚いた顔を見せ、ようやく口を開く。
「……違うよ。私はそんなつもりで彼を引き取ったわけじゃない」
 穏やかな、けれど真摯な口調だった。やはりヨハンの誤解のようだ。
「そうだよね。それ、ヨハンに言ってあげたら喜ぶと思うよ」
「……そうだな。だけどディーター、ずいぶんヨハンと仲良くなったんだな」
「うん、だっておんなじ気持ちを持ってる仲間だもんね」
「…………?」
「えへへっおやすみ!」
「おやすみ」
 まだよくわかってなさそうなテンマをよそに、ディーターが深く布団をかぶると、テンマもスタンドの明かりを消す。


 そうだ、同じ仲間だ。ディーターは心の内に繰り返す。だって二人ともテンマが大好きなんだ。
 会う前はヨハンが怖かったけれど、ヨハンもテンマに出会って変わることができた一人なんだと知ると、そんな気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。
 この不思議な友情を、ヨハンも感じてくれていたらいいなと心の隅で思いながら、ディーターの意識は次第に眠気に誘われていった。


 翌朝。朝食を済ませた後、テンマがディーターを駅まで送り、ライヒワインに迎えに来てもらうことになった。電話でライヒワインと話しているテンマを眺めながら、ディーターは隣に立つヨハンに話しかける。
「そうだ、ヨハン。ニナもヨハンに会いたがってたよ」
「アンナが?」
「うん。ニナから直接聞いたわけじゃないけど……話してて、何となく感じたんだ」
「そう……」
 兄弟のいないディーターには、正直この双子の関係はよくわからない。わからないけれど、二人が顔を合わせているところを見てみたいと思う。並んだ二人はきっと絵になるに違いない。
「あ、それと昨日、僕が羨ましいとか言ってたけど、あれはどういう意味なの?」
「そのままの意味だよ」
「それじゃわかんないよ」
 ヨハンは身体をディーターに向け、あの形容しがたい笑みを見せる。
「僕はね、君が心底羨ましいよ、ディーター。そんなふうに先生と純粋に想いあえる君が」
 意外な答えに、ディーターは目を丸くする。
 ヨハンだって、テンマのこと、純粋に好きなんじゃないの? それにテンマだって――。
「あのね……ヨハン。テンマはヨハンのこと、ちゃんと好きだと思うよ」
 ヨハンのことを語っていた昨夜のテンマはやさしい目をしていた。以前の二人の間には色々あったのかもしれないし、今だってぎくしゃくすることもあるだろう。だが少なくとも今の彼らは、ディーターの目には“家族”に映る。
「……それじゃだめなんだよ。僕の好きと、君の好きは違うものだから」
「え、それってどういう――」
「さあ帰るぞ、ディーター」
 ライヒワインとの電話を終えたテンマが、こちらへやって来る。
「じゃあね、ディーター。もう、お別れだ」
 ヨハンが薄く微笑みながら、静かに告げる。
「う、うん。じゃあね、ヨハン」
「じゃあヨハン、行ってくるから留守番頼んだよ」
「はい」
 ディーターはテンマと共に部屋を出て地下の駐車場に向かう。ふとヨハンが気になり、まだ家に入らずに二人を見送っているヨハンを振り返る。


 印象に残ったのは、その青い瞳。ニナと同じ目なのに、なぜだか寂しそうな色だと思った。ヨハンの言う、好きという感情に違う種類があるなんて、ディーターにはまだわからない。でも、それでも。


 ――サッカーみたいに、ヨハンにもクロスボールを上げることができたらいいのに。
 手に持ったサッカーボールを見つめながら、ディーターは心の中で呟いた。

<了>


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